高松市 吉本歯科医院の院長紹介

院長の吉本 彰夫を知って頂くために

  • 昭和44年 香川県高松市屋島で生まれる
  • 高松市立高松第一高等学校卒業
  • 九州大学歯学部歯学科卒業
  • 岡山大学大学院卒業
  • 岡山大学歯学部付属病院で勤務医として働く
  • その後、平成13年地元屋島にて吉本歯科医院を開業

現在の主な経歴

現在の私ができるまでのお話し

私の両親は学校の教員でした。そして祖母もまた教員でした。

そんな教育一家に育った私です。

私には10つ離れた兄と、6つ離れた姉がいます。うんと年の離れた一番の末っ子でしたので、小さい頃はずいぶんと可愛がってもらったように覚えています。

私が小学、中学、高校時代は両親ともに校長をしていましたので、それはもう24時間土日も関係ない忙しさでしたので、もちろん次男坊の私にかまっているヒマもなく、私は祖母にここまで大きくしてもらいました。

両親ともに教育者ということもあり、家ではしょっちゅう二人は大討論を繰り広げていました。

本人たちは「これはいい話し合いなんだよ」と言っていましたが、幼い私にはケンカしているようにしか見えませんでした。

今の私ができる上がるまでにこの両親は大きな影響を与えています。

当時、学校が非常に荒れていた時代に校長だった2人は、毎日が命がけだったといいます。

しかし、次々と起こる学校の問題に両親は、「さあ、次はどんなことがやってくる?どうやって解決するかな」と、むしろ、問題が起こるのを楽しみにしているかのようにも見えました。

今、ニュースで流れているようなひん弱な先生のイメージは全くありません。

どんなことでも「真正面から向かい合う」という姿勢を私は両親に見せてもらいました。

そして、学校のガラスを割ったり、バイクで運動場を乗り回していたような学生も、両親の前では、いつしか心を開いていく様子を目の前で何度も見てきました。

子供心に、お父さん、お母さんはすごいなあ・・・と思っていたのを覚えています。大人になったら両親みたいに全身全霊で仕事をしたいなあ・・・と。

それくらい子供の目からみる両親の姿は忙しそうで大変そうだったけれどイキイキとして見えたのです。

しかし、小学校に入った時には、「お前が吉本の子供か?」と先生や他の同級生が見に来るときが多々ありました。

先生の子供だからきちんとしないといけない、と無言のメッセージを発せられていたようでそれがとても嫌でした。

大人になった今では、なんとも思いませんが、子供の頃というのは狭い世界で生きているので、かなり窮屈な思いをしたものです。

小学校6年の時、そのままいくと住んでいる地区の屋島中学校に行くはずでしたが、当時、屋島中学校の教務主任をしていたのは私の母親でした。

これはこのまま屋島中学校に進んだら、何を言われるかわからない!と危機感をもった私は、猛勉強をし、香川大学附属高松中学校へ入学しました。

とても遠い学校だったので通うのは大変でしたが、校風が非常に自由で、市立中学校とは違い、新しいことへの取組みがとても早い学校だったので、3年間は有意義なものとなりました。

私の兄が一足先に、歯科医になるべく日本大学歯学部へ入学しました。

兄貴の背中がいつも憧れだった私も、小学の卒業文集には「将来は、立派な歯科医師になります」と書いていました。

10歳離れた兄の姿はいつも私の模範だったように思います。

高校卒業後、九州大学歯学部へ進みました。

生まれてはじめて住む九州の地の魅力に私はすぐにとりつかれてしまいました。

発展的な街、そして何よりも、「ひと」が愉快でおおらかでした。

四国の片田舎に住んでいた私は、あっけらかんとした九州人の雰囲気に、すっかりとりこになってしまいました。

大学時代は、とにかく必死で勉強しました。

絶対に日本一の歯科医になってみせるという、熱き想いが若い体中にみなぎっていました。あの頃のエネルギーは今思い出してもすごいものがあります。

大学卒業後、私はさらに勉強をすすめたく、岡山大学大学院歯学部へ入学しました。

九州大学時代、そして岡山大学時代、共に、先生方から頂いた素晴らしい講義はどれも今の私の吉本歯科医院の核となっています。

そして、大学での大学院勤務医時代のことをお話させて下さい。

思い出というのは、楽しかったことより、苦しくて大変だったことの方が、強烈に覚えているものでしょうか?

あんなにハードな生活を体験することはめったにないと今では思います。

3日徹夜をすることもざらにありました。「まさか寝たんやなかろうな」という上司の言葉におびえながら?

私だけがそうだったのではなく、周囲の仲間もみな同じような環境でしたので気を抜いているヒマなどありませんでした。

人間、追い込まれるとどんなことでもできてしまうんだ、ということを身体で実感したのでこの時期です。

もちろん家に帰るヒマもなく着替える余裕もなく、休みもなく、24時間365日、働きづめでしたが、不思議と疲れず充実感に満ちていたのを覚えています。一日睡眠時間が2〜3時間でも平気な体になっていました。

あの頃の大変な体験が今、私の財産になっています。

吉本歯科医院を開業してから

小学生の頃からの念願である地元屋島で歯科医院を開業しました。

大学で経験した最先端の歯科治療の技術をこの高松の地で!と私の胸はあつく高鳴っていました。

大学時代に学んだ歯科医療の「核」を学びました。それは簡単に言うと「歯を削らない歯科治療」です。

過剰な切削や再治療が歯の寿命を短くしている日本の歯科治療に対して、できるだけ歯質を残し、接着剤できっちりふさぐ、ということです。

これまでの「虫歯になってから歯医者に行く」という考えではなく、「歯を失う前に自分で自分の歯を守る」という考えをいかに患者さまに伝えていくか、これが私の使命だと思いました。

そのためには医療者や病気中心の考えから、患者さま、人間中心の医療に変革するべきだ、と感じていました。

ところが、いざ開業してみるとそのような考えを理解してくださる患者さまは非常に少なく、多くの患者さまは通院回数は少なく、削っても抜いてもいいからとにかく早く治して終わって欲しい、という方がほとんどでした。

大学院や大学病院での経験がそのまま生かせるとは思いませんでしたが、現実とのギャップに私は愕然としました。

「自分は最高の理念と最高の技術で患者さまのため歯科医療を提供しよう」とひたすら突っ走ってきました。

しかし、振り返ると「患者さまのために」と言いながら、実は私の価値観をスタッフや患者さまに無理やり押し付けていたのです。

それはあきらかに自己中心でした。

しかし、良いことをしているつもりなので、自分ではなかなかそれに気がつきませんでした

はじめてハッとさせられたのは、ある患者さまから言われた一言でした。

「先生・・・こわい」

私はその患者さまの顔を見て愕然と立ち止まってしまったのです。

そしてその直後、今度は家族です。

妻も歯科医師だったので私のことは当然わかってくれているはず、苦しい時に支えてくれるのが家族のはず・・・と信じ込んで仕事にぼっとうしていました。

開業した当時は2,3週間も家に帰らない日が続きました。

開業したばかりなので、いくらでも仕事や雑務があったのです。

ところがある日、たまたま早く帰宅すると妻が不機嫌な顔をしている。

突然「出て行って。もうやっていけない」と怒鳴り怒っているのです。

驚きました。なんでそんなに怒っているのかもわかりませんでした。

今、思えばこの鈍感さが、思いやりに欠けていたのでしょう。

結局話し合いの機会もなく、妻は私のもとを去り、離婚しました。

そしてさらに追い討ちをかけるように、開業以来一番信頼していたスタッフが「やめます」と申し出てきたのです。

一度やめると決めると決意は固く、代わりが見つかるまで勤めてもらいましたが慰留の説得はあきらめました。

患者さまに対する治療にも私は不満がいっぱいでした。

大学病院では1日8人、とにかくじっくり最善の治療を行ってきました。

しかし、開業してからはそうはいかず、多くの患者さまの治療をこなすのに精一杯になってしまっていました。

どの患者さまにも最高の治療レベルを提供したいのに、現実はそうはいかないギャップに私の内面はもがき苦しんでいました。

そんな私に転機が訪れました。

ピンチはチャンスと言いますが、本当にその通りです。

人間不信に陥いりそうになっていた私に、その時たまたま香川県歯科医師会の広報担当ということで、ラジオ出演がありました。

歯の大切さを多くの人に啓蒙する役割があったので、私は人前で上がらず上手に話すために「話力講座」に通うようになったのです。

この講座から私のエレベーターは地下10階くらいから一気にぐ〜んと上に上がりだしたのです。

講師の人間科学研究所の所長、池田弘子先生は、上手に話すための指導よりも、「いかに自分を多くの人に受け入れてもらえるか」「いかに他人と上手にコミュニケーションがとれるか」を徹底的に指導してくれる先生でした。

講座には先生を慕う多くの生徒さんが来られており、私はそこではじめて歯科業界以外の人達と交流をしました。

一人で悩んでいた気持ちがどんどん晴やかになっていくのを感じました。

講座にはさまざまな職業の方、年齢もさまざま、普通の生活をしていたら私などはとうてい出会うきっかけすらないような人ばかりです。

講座ではいろいろな演習をふまえてコミュニケーションを学んでいきました。

そして私ははじめて、いかに自分が相手の(特に女性の)気持ちをわからない大馬鹿野郎だったかに、気がつかされました。

先生の話を聴くたびに、自分のとってきた態度や言葉がいかに家族や、スタッフ、そして患者さまに嫌な思いをさせてきたかを思い返し、思わず涙が出てきてしまいました。

なんで私はこんなに頑張ってるのに、みんなわかってくれないのか、と自分本位に凝り固まっていた私の心の奥から、「そうじゃなかったんだ、悪いのはみんな私だったんだ」と心から思えました。

相手の考えを理解するには「聞くこと」から始めなければいけない、ということを学びました。

私はまずスタッフに私の事をどう考えいるのか聞いてみることにしました。

言いたいこと、何でも自由に話をしてもらいました。

すると出るわ出るわ・・・・・。激しい非難の嵐です。

「態度が横柄」「患者さまにブラッシングを強要している」「治療方針を押し付けている」「スタッフにねぎらいが足りない」

私は反論せずとにかく聞きました。

こんなことを思っていたのか・・・。ショックでしたが、まずはそこからがスタートだと腹をくくっていました。

つねに患者さまに優しく親切に!とスタッフに言い続けていた私の方が、本当に患者さまの気持ちになっていなかったことにまた気が付きました。

そしてスタッフに言われたことすべてをノートに書き出し、私は態度を改めていきました。

すると、不思議とこれからの吉本歯科医院の未来がどんどん見えてきたのです。

私はまず、同じ働くなら患者さまに心から喜んでもらえ、また、スタッフも「吉本歯科医院で働いてよかった」と思える医院をめざそうと考えました。

「患者さまにやさしく」といっても、自分が優しくされなければ、他人にはやさしくすることはできません。

私はスタッフを大事にし、一人一人の考えをとにかく尊重しようと思いました。

その結果、スタッフの「顔」がみえ、患者さまとのコミュニケーションがはかれる吉本歯科医院が出来上がってきたのです。

そしてそれまでの、吉本歯科医院や院長に対しての「ありがとうございました.」ではなく、「◯◯さん、ありがとう」と、スタッフが名指しで感謝されるようになってきました。

「院長、患者さんに大根頂きました〜」

「院長、患者さんに絵を頂きました〜」

「院長、患者さんにカラオケに誘って頂きました〜」

など、患者さまからたくさんの嬉しいサプライズが頂けるようになり、医院内に活気があふれ出しました。

治療の面も、理想的な診療が行えるようになっていきました。

カウンセリングを行い、徹底した説明を患者さまに受けていただくことにより、より最善の治療を時間をかけて行うことができるようになってきました。

人は意味のわかならいことには納得してくれませんが、理屈がはっきり理解でき、必要性を感じた時、治療に対して大きな信頼を寄せてもらえます。

従来の医療者からの押し付けがましい治療ではなく、本当に患者さまの要望にそった最善の治療を行うこと、これが今の私の方針です。

ここまでくるのに本当にたくさんの挫折がありましたが、今思えば全てが必要な過程だったのだと心から思います。

今、吉本歯科医院には素晴らしいスタッフが揃っています。

がけっぷち時代に「やめます」と申し出た歯科衛生士も、さまざまな医院を経験し、「やはり吉本歯科医院で働きたい」と思い、また戻ってきてくれました。

こんな嬉しいことはありません。

開業当時は、本当に無理をさせたね、ねぎらいがなくてごめんね、そんな気持ちでいっぱいでした。

そして今、私は大切な家族がいます。

昔の苦い過ちを二度と繰り返さないよう、コミュニケーションを大切にしたいと思っています。

しかし、吉本歯科医院の挑戦はまだまだこれからです。

吉本歯科医院は「変化し続ける」途上にあると思っています。

私は家族、スタッフ、患者さまから厳しい評価をうけて、再スタートしました。

まさに波乱万丈でしたが、人間いつでも原点に戻ればやり直しはできるのだと思います。

これからもごあいさつ、お見送り、マスクをはずして患者さまとしっかり向かい合う、目を見る、などなど、人間としてあたりまえのことをひとつひとつ積み重ねていきたい。

そして、吉本歯科医院を訪れる人すべてが、「なんか、不思議と元気がでるなあ」と感じて下さる、そんな医院を作っていきたいと思います。

長々と読んでくださって本当にありがとうございました。