なぜ、「治療が成功するのか?」「他ではうまくいかないことがなぜうまくいくのか?」の答えは、基本原則「守破離(シュハリ)」を守っているから、とお答えしたい、そう思います。
教えられたことを
教えられた通りに、
教えられたことだけを、
余計な入れ知恵をしない、
他からの変なことをしない。
その「守(シュ)」を守るということをまず成功させる、ということを確実にこなしているからなのです。
パッと見、古い先生の言うこと、「あっそんな古い治療は」っということではなく、古い治療の先生にはそれなりの経験・実績があってそのところに行き着いている結果があるのです。
その結果と同じ結果が出せて初めて、その先生のやり方ではない考え方を守っていく、築いていくことをすれば良いのであって、その先生と同じ結果が出来る前に違う概念を入れることによって面倒くさいであるとか、大変だとか、そこで自分勝手にやってしまってはいけないのです。』
教えられたことを
教えられた通りに、
教えられたことだけを、
余計な入れ知恵をしない、
他からの変なことをしない。
これは
簡単なようで
とっても難しい。
だって、ある程度知ると
ある程度やってると
「できるようになる」からです。
そして「できるようになっている完璧」と
自分で完全に思い込むようになってるんです。
そして
もうそれは完璧、終了!
と思い込んでいるから
次へ次へと行きたくなる
自分で勝手にアレンジしたくなる。
自分で簡素化して手早い方法をしたくなる。
てばやく達成したくなる
「守」の基本原則を完璧に修得しないまま
勝手に自己流でやってしまう方が
楽チンです。
確実に完璧にひとつの作業を
「うん、今日も完璧だね」と仕上げることができる
安心して完全にこの部分はまかせることができる
これが
信用です。
そして
仕事は
この小さな「うん、今日も完璧」を毎日毎日繰り返してくれる人を
完全に信用します。
そして、「価値がある」存在
とみなすのです。
それは大きな仕事も
小さな仕事も関係なくです。
例えばうちの事務の仕事をしてくれている井上さんという女性がいます。
彼女は、この分野の仕事内容に関しては
「今日もやっぱり完璧」という一定の基準をいつも
保ってくれています。
それは
自己流にしない
というルールを徹底的に守ってくれるから、です。
これは何もうちで教えたのではなく
井上さん自身が、過去の会社経験の中で着実に積み重ねてきた方法を
そのまま吉本歯科医院にきても「同じようにやっているだけ」です。
基礎がたたき込まれているんです。
院長から依頼があった事務作業を
教えられたことを
教えられた通りに、
教えられたことだけを、
余計な入れ知恵をしない、
他からの変なことをしない。
で、完璧に仕上げる。
だから、安心してまかせられる。
だから、いつもまかせる。
だから、何度もまかせる。
結果=いないと困る存在になる
ということなのです。
個性は大事です。
でも、もっと大事なのは
「個性が素晴らしいね」の基礎工事となる
「言われたことを言われたとおりに完璧にすることができる」
という土壌があってこそ。
「あの人は個性的で素晴らしいけど、
一緒に仕事するにはちょっとね」と言われるのは
土壌となる部分を積み重ねてないから、です。
個性が素敵ね
と言われるその水面下には
かっちかちの基礎体操がいるんです。
その基礎工事とは
教えられたことを
教えられた通りに、
教えられたことだけを、
余計な入れ知恵をしない、
他からの変なことをしない。
なんです。
私は、今その意味が痛いほどわかる。
20歳の時に教えよ
と思うくらい。
教えてくれた人はたくさんいたけど
掴むことができなかっただけですが、
今は本当にそう思う。
先週の母性型勉強会です。
やっと、書けました。。。
年末が近くなってきたからでしょうか。
院内毎日戦場のようになっております。
走っちゃいけない、
優雅に歩こう
なんて言ってる私が一番バタバタしてるそうです。
今回から吉本歯科医院の2階、私達がいつもミーティングをしている場所を使っての勉強会。
肩と肩が触れる距離での「やりとり」
距離って大事です。
ところで「なんとなく気が合う関係」
というのはどういうものでしょうか?
気が合う
気が合わない
気づまりする
話がもたない
これらは
なんとかく身体が感じていること。
でも、「じゃあ、なぜ?」と理屈で説明しなさい
と言われたら
明確に、「◯◯ゆえに、今日は雰囲気が悪いのだ」
とは説明することは難しいもの、です。
「なんとなく気が合う」
「なにかにつけてよく会いたがる」
「会うと意味のない会話で何時間でも話してる」
ってことは、
女性のみなさんなら、体験があることだと思います。
第3者が聞いたら
「で?何?」と言いたくなるような
意味のないような内容で盛り上がってたり
大笑いしてたり。
気が合う関係には言葉はあまりいらないことが
多いのです。
逆に言えば
説明言葉がたくさん飛び交ってるような関係は
心の距離は恐ろしく遠い、ということ。
気が合った人同士で盛り上がってる時
説明しなきゃいけない
意味がある話をしなきゃいけない
って人がいきなり入ってくると
その場が一気に白けたり、盛り下がったりします。
一緒に仲良くご飯食べてたのに
いきなりツボを売り込まれるようなもの、です。
気が合った人間同士が一緒の場にいると
①やたらくっつきたがる
②「やんもうっ!」などと喜びなが相手の肩や背中を触っちゃう
③リラックスしてる
④息があってるので、同時に同じことを話しだしてしまう
⑤会話の中に深い意味はほとんど、ない
こういう近い距離感の関係の人が
いつも自分の周りにいると
これはもうとっても楽チンで、人間にとってはすごいエネルギーチャージと
なります。
いわば
「私のなわばりに入ってきてもいい人」
ということです。
そして、相手のなわばりにも入れてもらえている関係。
本当に心の距離が近しい関係になると
言葉はほとんど、無意味です。
表情見てたら
「ああ、嫌なんだろうな」
「ああ、好きなんだろうな」
「今、こうしたいんだな」
ってことがわかります。
関係性がない人同士だと、
言葉がたくさん、いるんです。
説明がたくさん、いるんです。
説得するのに、1000ほどの言葉や説明がいるんです。
しかししかし
私達が生きてる今の社会は
どんなお仕事の場でも、学校教育の場でも
説明責任、です。
「聞いてない」「言ってない」ではすまされないよ、という時代。
だから、しっかり責任を果たすため、
私達は、
「え?そんなことまで?」ということまで
言葉にして、書面にして、ひたすら説明し
相手の承諾を得なくちゃいけません。
ものすごく疲れるし
ものすごく非効率的
でも、そんなことを言ってられないので
責任感を持って皆、しっかりやっているのです。
誰かと接した時
パッと今までの疲れが吹っ飛んじゃった
って体験はありませんか?
私はそんな体験がよくあります。
一日中神経遣ったなあ・・・
今日出かける約束だけど、家で寝ときたいなあ
って思った時でも
いざ出かけてみて
気が合う人達の中で2時間3時間と交流すると
「あれ?あんなに疲れてたのに不思議」
と背中に羽が生えたようになることが、あるんです。
神経遣って脳みそが疲労起こしてる時って
きっと自分の発散できてない時なんです。
聞いてくれる人がいたり
共感しあえる人がいたり
身体の中にこもった怒りやグレーな感情を
「うんうん、わかるわかるーー」なんて吸い取ってくれちゃったりする人がいると
もう一瞬で復活しちゃいます。
だから人間は気が合う、合わないって本当大事です。
自分ひとりで健康になろうなんて
無理な話なんです。
人は人と関わって生きてるから人間関係
なんて立派なお話なのではなく
本当に、気が合う人と会って、会話や触れ合いといった
ゆるやかーなコミュニケーションにより
本当に精神疲労だって回復していくんです。
自分以外の周囲の人達にかならず影響を受けて
または自分も与えて、生きてるんです。
そして、その関係が
「気づまりせず、心地いいわ」と思える関係であれば
その影響は自分の肉体の健康度に表れます。
だから、自分にとって「会うとスカッと元気になる」
とか
「さっきまでブルーだったのが嘘みたい」
とか
「ま、なんとかなる気がしてきた」
なんて思えちゃう人との関係は
自分を元気にする命綱なんです。
充電器です。
それを、相性と言ったりもするんです。
相性は、いつもいいとは限らず
自分の状態と相手の状態にもよるんです。
こっちはいいけど、相手の状態が最悪の時は
「気が合わない」となってしまうんです。
だから、
相互に「なんか自分たちって、相性よくない??」と思わずにやけちゃう瞬間
があればそれはもう奇跡のように幸福な瞬間です。
で、そういう瞬間はずっとは続かないので
そんな瞬間があればラッキー。
人は悩みます。
私だって毎日のように悩みます。
ただ、夢中で仕事してて時間を忘れてる時は
「悩む」という時間が脳ミソにないので
悩むことができません。
それが、いんだと思います。
人間関係で悩んで
なんだか暗い迷路に入ってしまうと
どんどんどんどん
自分だけを責めちゃいがちです。
「みんなとうまくやれないのは自分のせい」
「あの人と仲良くやれない自分は幼稚?」
と、どんどんどんどん自分を責めちゃう方向にいってしまうんです。
特に女性はその傾向強し。
誰とでも仲良くできなきゃいけない
誰からも好かれないとダメ
というどっからかふってきた洗脳のせいだと、思うんです。
誰とでも仲良くできたらいいけど
誰からも好かれたらいいけど
そんなことは、無理です。
自分以外の他人さまの好き嫌いを自分の力でどうにかすることなど
できないのです。
社会では
そして仕事をしていくうえでは
誰にでも上手に対応できた方が、
自分は楽です。そして、楽しい。
だから、その技を訓練して身につけたらいいと思うのです。
仲良くしようとするとしんどい。
好かれようとするとしんどい。
だから、
自分は誰とでも付き合える
好き嫌いは別の話です
となると
いろんなことがとっても楽です。
好きじゃないのに、好きだといわなきゃいけない
とか
仲良しじゃないのに、仲良くしないといけない
という矛盾で
ものすごく苦しんでる若い人の話聞いた時に
そんなこと、思いました。
どんな人がきても
向き合っていける
というのが一番楽です。
その上で、
気が合う、お互いの縄張りの中に入り合える関係や
場がちょこちょことあったら、
結構きつい世の中になってきても
超ハイテンション元気にはならなくても
凹んだり落ち込んだりてる波を
ニュートラルなところにもっていくことは
できます。
今回の母性型勉強会
ホテル開催なら21時きっかりに会場を出ていましたが
我が医院ですので、エンドレスで
話が続いてしまいました。
次回より、
お帰りを急ぐ方は、「そろそろ子供が待ってるので帰ります」
と手を上げて下さいね。
次回勉強会は
12月17日(水)18時半~21時です
場所は吉本歯科医院2階ミーティングルーム
会費:2000円(軽食付き)
お申込は
先日お邪魔した中北ゆきさんのせんのかい「YUKIの部屋」
今回も、恐ろしく簡単で(←生春巻き一枚巻いたっきりの私!!)
びっくりするほど美味しくて身体に優しそうなお料理を教えてもらいました。
「あれ?うちの奥さんこんなに料理上手だったっけ?」
と思わせてしまいたい
ちょっと面倒くさがりで
あまり時間のないあなたっ
特に、仕事をしながら子育てしつつも美味しいものを食べたい
子供に身体にいいもの食べさせたいという方なら
ぜひ一度参加されてみては?
講師のゆきさんは
「私、健康おたくなの」
と。
健康おたくのゆきさんが教えてくれた
超よもぎエキス
は毎晩眠る前にお湯でといて飲むと
たちまち足先までぽっかぽか
毎晩飲んでます。
料理教室といっても、大丈夫。
以前写真をアップしていたら
「あの写真の料理教室に行って見たいんだけどどうしたらいい?」
と何人かのママに聞かれたので
詳細をお知らせしておきます。(勝手に)
11月は16日(日)、23日(日)24日(祝)30日(日)
11時~適当に、。
会費3,000円
場所は、高松南郵便局の近くのご自宅なのですが
3回行って3回迷った私は説明できません。
直接おききください。。。
日程はこれ以外にも相談に応じて下さるとのこと、です。
お友達お誘いあわせのうえ、どうぞ。
tomo@8181118.com
私までメールいただければ中北さんのご連絡先をお知らせしますね。
どこかの日でご一緒するかも。
とにかく、
美味しいもの食べて
楽しくしゃべってたら
少々の小さなことは、気にならなくなるものです。
先週2晩続けて、母性型の池田弘子先生が、って母なのですが
母のところに20代の若いこれから結婚したいと思っている女性、および
もう結婚して(しまった)女性達がテーブル囲んで
キャーキャー言いながら集まってきてました。
なんでも、一人の女性が
古事記と母性型の話をセミナーで聴いて
「もっと聴きたい」とお友達を集めてやってきた、というわけです。
20代の若い女性が
なんといってもくいついてくるのは
「結婚」
です。
ズバリ、
いま私の頭の中は結婚しかないですからっ先生そこんとこよろしくっ、
とまでいう人も。
その言い切る潔さが素敵です。
みんなの中で一人だけそう言えちゃった彼女が一番最初に結婚しそうな
気が、私しました。
それは正直な話です。
自分自身振り返ってみた時
26歳頃になると
周囲の友達がどんどん結婚して
子供までできちゃって
「いきなり置いてかれてる感」
を味わい
今日の目の前のことしか考えてなかった私は
いきなり
戸惑いました。
でも、右も左もわからない
こればっかりで縁のもの、出会いは偶然か必然か
お金出して得られるものでもなし
勉強して得られるものでもなし
自己流ですもので
ますます
戸惑うのです。
女性にとっては
自分がいつ結婚するのか、できるのか
自分が誰と結婚するのか
は仕事よりも大事な問題であったりも、するわけです。
そこで、
母性型や古事記のお話が実に面白いのです。
私も正直、「なんで古事記?」と最初は思ってたのですが
話を聴けば聴くほど
母性型の軸になるような考えばかりで
最近はずっと耳ダンボにして話を聴かせていただいてます。
古事記は全編を読みとおしてみても
神様の名前が難しく、理解するのがたやすくないのですが
古事記をわっかりやすく
現代の男と女に例えて解説をしてくれると
こんな面白い話はない、ものなのです。
古事記は、行く先々で浮気をする男神に嫉妬する女神のお話があったり
とっても人間らしい物語。
行くトコ行くトコで
浮気を繰り返す
これは男性の性質かも、しれません。
本来、そういうもの。
隣に優しくて申し分ない奥さんいても
キレイな女の人が横切ったら
ついお尻をおいかけてみたくなるもの
それが本来の性質です。
倫理道徳ではない、
物語の話です。
でも、倫理道徳でぎっちぎちにしたから男も女も
今、こうして心が不自由で生き苦しい社会になってるかも
しれません。
正しい結婚
こうしたら結婚できる
なんて細かい勉強などしたことはなく
誰しも
なんとなく
年頃になれば
自己流のやりかたで
育った環境の中で得た知識で
それぞれが結婚していくわけです。
だから結婚した娘は
自分のお母さんそっくりの関係を夫と築いてしまいがちです。
自分では普通で、あたりまえだと思っている
自己流は
他人から見れば
「ありえない」ことであったりもするのが
自己流
です。
考えてみれば
すごいことです。
きちっと教えてくれてないことを
自己流でやるわけですから。
これが正しい
ってこともなく
これは間違いってこともなく
指針も目印もなく
あくまで自己流でやる。
それが、結婚。
ちゃんと教えてくれればいいのに
と思ったことはありませんか?
男は女がどういうものかを知り
女もまた男がどういうものかを知る
母性型勉強会では
時にこんなことも話し合うのですが、
出てくるのは毎回
男女ともに
「え?そうなの?」
「え?あれ?違うの?」
という驚きばかりです。
肉食女子
草食男子
こんな言葉も一般的になり
男からアプローチできなくなったので
女から男にアプローチするのも、あたりまえ
「だって、自分から行かなきゃ成立しないもの」
「だって、最近の男子はおっかけてくれないもの」
だから、
女から、積極的に攻めるのは、あたりまえ
このように
ある意味、今は
女性にとってはしんどい時代に突入しています。
昔のように
男性の方から積極的に
アプローチをしてくる
ラブレター攻撃
など、
もはや
ない、のですよ。
復活すりゃあいいのに、と私などは思うわけです。
ラブレターのすすめ
手紙は、いいです。
私が最初にラブレターを書いたのは
中学2年の時です。
書いたラブレターに返事をもらった時の嬉しさ。
その後、高校の時もよく書いてました。
卒業して大学行った時には
毎日手紙ばっかりでした。
会えない友達とは交換日記のように手紙のやりとりしてました。
だいたい10枚くらい書いてました。
もはや、
どれだけ書いたのか
いったい誰にあてて書いたのかさえっ
記憶にないほど
書いてました。
それほど、自分の内なる想いを出したくてしょうがなかったし
出せる快感も感じていたんです。
こっ恥ずかしいことも
平気で書けちゃう深夜
朝になって読み返すと冷静になって恥ずかしくなるので
夜のうちに赤いポストに投函しに行く
なんてことを
していました。
それを集まってた20代の子に話すと
「重いって」
もちろん今思えば重いのですが
当時は
「重い」なんて言葉さえ一般的に使ってない
「ストレス」なんて言葉も、「セクハラ」なんて言葉も
使ってない時代です。
人間関係もっとゆるやかだったんです。
上司がお尻触っても
「えっちいん」ってほっぺたパチッてできてた職場。
当時の上司は今はもう大阪にいって80歳近いですけど
はげた頭をパチッて叩けるほど
心は近かったし、
女性部下達がみんなはげ頭をパチッとできちゃう関係でした。
今は、お尻触ろうものなら即訴えられそうだし
肩に手をかけても怒られそう
「まだ結婚しないの」っていうのもセクハラだそうです。
そんなギチギチにしちゃった
男の人恐ろしくて女性に気軽に声かけられないですよ。
声かけられないように
女性に接触できないようにしておいて
男性は押しが弱くなった
とか
男性はコミュニケーション能力が低くなった
とか
言われても
そりゃあ、かわいそうってものです。
女の人も悲劇です。
誰にも触ってもらえない
会社で肩もたたいてもらえない
手もにぎってもらえない
冗談も言ってもらえない
そりゃあ、ストレスもたまって眉間にシワもよります。
普段から
しょっちゅう人に接触してるなら
人に対してもストレスもないんです。
過剰反応を示さない。
でも、今は触らない。
親は子供を触らない
教師も子供を触らない
友達同士も
触らない
触らないどころか、
目も合わない
言葉でなんとかしようとする。
抱きしめる前に
理屈をこねるのです。
もっとさみしいのは
メールだけ。
抱き締められたという実感よりも
目の前で何かごちゃごちゃいってるわ
という印象しか残らない
どこかうすらさむいのです。
人間みんなさみしくなって
あたりまえ。
精神の病気になる人が多くなって
あたりまえ。
男は基本、女が好きなんです。
そして女もまた自分のことを好きな男が好き。
そしてそれが普通です。
それを
押さえよう押さえよう
表に出さないよう出さないようにしてると
人間、それは我慢ですので
お酒飲んだり、何かの瞬間で爆発するのです。
我慢はたまれば
どこかで爆発するようになってますので
歪な形で出ちゃうんです。
こうでなきゃいけない
というガチガチの職業の人ほど
タガが外れた瞬間の
はじけかたは
すごいのです。
きちんと仲良くできなくなったから
関係がどんどん歪になるんです。
セクハラやら
パワハラ
やら
言葉に捉われる。
言葉に捉われだすと
人生も狂うのです。
男と女は仲良くやれるのが一番いんです。
「セクハラ」なんて言葉を
知ったから
頭の中に、「セクハラ」という概念がインストールされたんです。
概念がインストールされたから
身動きとれなくなったんです。
意識しすぎて、動きが不自然になっちゃったんです。
まるで
右足を出す時には
右手も出して歩いているように
動きが急に不自然になっちゃったんです。
不自然な動きは違和感ですので
気色が悪いのです。
気持ち悪いから、その結果
あの人はセクハラね、ととられるのです。
嫌いな人に触られたらセクハラ
好きな人に触られたら嬉しい
これが、女です。
人との関係においても
同じです。
「重い」
ということも、そうです。
友達同士や
男女同士において
「なんか、重いわー」という概念がそもそもなかったのです。
いいでしょ?
今は、「あの女、重い」と思われたら嫌だ
「あの男、重い」と思われたら嫌だ
という概念に自分の頭がしばられて身動きとれなくなってるんですから。
そもそも
そういう概念がない
というのは
頭の中が自由で
妄想も想像も
ふくらみ放題だったわけです。
今の時代の人間関係における最大の不幸は
先に考えすぎちゃうこと、です。
「こんな風に思われるんじゃないか」
「こんなことしたら嫌われるんじゃないあ」
そもそも
頭の中に
相手がどう思うかなど
そんなこと思いもしない
って状態なら、自由に動き自由に話せ自由にコミュニケーションが取れるのです。
だから
相手のことを一方的に想い、恋こがれ
それを文章に綴るという行為は
書いてる本人は
快感なのです。
ネットサーフィンしてるよりも
はるかに快感なのです。
お父さんお母さんの時代には
男から積極的にアプローチするのがあたりまえ
結婚を申し込むのは
男性からするのが、これ、あたりまえ
誰もそこに「?」はなかったのです。
でも今は
男性を「いざ、結婚へ」とふんぎらせるには
女性の方から
「ねえ、そろそろ」と言い出さなきゃいけない。
ここに、現代女性の悲しさがあるわけです。
言ってる自分も
興ざめするわけです。
「女の私がなんで言わなきゃいけないのよっ」
と。
そして言われた相手も興ざめしてるわけです。
年齢もリミットだし
もういい加減、この付き合ってるのか付き合ってないんだか
わからない関係に終止符を打ちたい女性が
将来不安を自分ひとりで持ちきれずに
思い切って「結婚」を切り出した途端に
男性がドン引きして
「今はそんな気になれない」などと言われる女性は多いです。
じゃあ、どんな気で付き合ってるのよっ
と怒りたくなるのですが
古事記的に言えば
「女が先に声をかけちゃったがゆえに、おじゃんになった」
わけなのです。
まさに
「その気」が
失せた
瞬間です。
細かく言うと
結婚する気があったかもしれないけれど
女から「結婚してくれないの」と口に出したがゆえに
その気が失せた、わけです。
微妙ですよね。
でも、わかりますよね。
この感じ。
男性は
自分から
自分が好きになった女性に
自分の口で「結婚して欲しい」と
言いたいわけです。
本来は
おいかける性ですので
おいかけられてしとめられたくないわけです。
値踏みされて条件をクリアしたあなたと
結婚したいから、あなた私と結婚して
とは言われたくないわけです。
女性から
「もうそろそろ年齢も限界だし結婚して」
とか
「今の関係じゃ不安だから、どっちかにして」
とか
追い詰められると
逃げたくなるのです。
男性は「この人じゃなきゃ!」と思わず結婚を
口にしたいのです。
女性も
自分から男性に対して
「お願いだから結婚して」と言いたくはないのです。
男性から
「言って欲しい」のです。
ここ、重要なのです。
自分から仕掛けておいても
肝心なことは
男性から
言って欲しい、のです。
女性は
男性から「この女と結婚しなきゃ!」と思わせるように
思わせるように。
そして決して自分からは口にせず。
という
禅問答のようなことを
やってのけないと
いけないわけです。
古事記の物語の中で
国生み
という場面があります。
男と女が出会い交わり子供を生む
場面です。
女から先に
「まあ、本当に素敵な男性ですね」
と声をかけました。
その次にそれを受けて男性が
「やあ、本当に美しい女性ですね」
と言いました。
しかし、それぞれが言い終わった後に
男が
「うーん、なんか女が先に男に声をかけちゃうのはどうもしっくりこんなー」
と言いましたが
しっくりしないまま
男女の交わりを行い、子供ができました。
そうしてできた子どもが
たいそう醜いヒルのような子供でした。
男と女は
これはいかん、と神様に相談に行きました。
「どうも子どもがうまくいかない。
どうしたらいいでしょう?」と。
神様はこう言いました。
「女の方から先に声をかけたのがいけない。
声をかけるのは男から」
先に女が男に声をかけるのはよろしくない
男が先に声をかけること。
ほーう、
なるほど。
私、腑に落ちます。
じゃあ、なんで世のお父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃんは
みんなすんなり結婚してるのかといえば
年頃になれば結婚するもの
というのがあたりまえだったんです。
今のように
結婚するまえに
あれこれ頭の中で考えない
あれこれ考えるという概念が
そもそも
なかった
のです。
だから、すんなり
です。
たいがいは
深く考えず
すんなり
です。
お父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃんの話を聴いてみると
今のようにそんなに考えて結婚してないんです。
情報がないから、です。
今の時代は
結婚することが
10年、15年前よりも難しい。
携帯やインターネットがなかった頃は
自宅への電話
や
待ち合わせ
や
遠距離恋愛の快感
や
もちろん手書きの手紙のやりとり
や
写真もわざわざ現像しなきゃいけない
などの
いい意味での
障害がありました。
すぐに会えない
相手のことがわからない
すぐに相手と連絡がつかない
だから、想像する
パッと会って
「素敵かも」
と思ってから
実際に会えるまでの時間に
いろんなことを
想像できちゃってたわけです。
でも、今は
待ち合わせなんてしなくても
携帯ですぐ連絡つくし
遠距離で海外だろうが国外だろうが
電話一本で声がきける
写真はその場ですぐ見える
相手の情報はネットの中を探れば
「ああ、こんな人ね」と勝手に情報入手が可能。
これは
つまんないです。
想像できない。
ワクワクできない
ドキドキできない
頭で先に、自分がわかっちゃうから、です。
旅行と同じです。
行って見なきゃわからないのが本当です。
でも、今は行かなくても
「ボルネオ行きたいなあー」って思って検索したら
画像も
動画も
見えちゃう。
情報が入りすぎて
ワクワクが湧き上がるまえに
先にわかっちゃうかなしさ。
先生いわく
これから結婚する女性は
いかに相手に自分のことを
「いい女やなあ。
この女と結婚できたらどんなに自分は幸せだろう。
いや、この女じゃないと自分はダメだっ
おっと、チンタラしてたら
他の男に持っていかれてしまうっ
急げっ俺!」
と思わせてしまうかどうか
だと。
「むずかしいーーーー!!」
「どうやって??」
身を乗り出す20代女子。
一緒に身を乗り出す41歳わたし。
どうやって?
という細かい方法を教えて欲しいのが
本当のところです。
自己流ではなく
どうやったら?いいわけ?
ということを
知りたい人はたくさんいると
私は思います。
次回母性型勉強会は
日時:2014年11月19日(水)18時半~21時
場所:高松国際ホテルにて
会費:3,000円(食事代込み)
いいこと知ったり、
いいこと勉強してきて
それで自分がものすごく良くなったり、
うまくいかなかったことがすごくうまくいくようになったり
ってことが、誰にでもあります。
私も、あります。
でも、知っただけで
勉強しただけで
頭の中に入れただけで、
そのままにして
自分だけで醗酵しちゃってると
脳みそが便秘になります。
いいこと知った
知って早速やってみた
うまくいった
これはいい!
ってことは、私はすぐ人に教える話す。
誰かに会っていい話を聴いたり
勉強してすごいことを知ってしまった時
「わ、すごいな、いい話きいた」
で自分だけで止まっていると
次の日にはもう、忘れそうになってます。
興奮も、同じです。
感動も、同じです。
知った、聞いた、学んだ後、
間髪いれずに
誰かに話す、教える、伝える、
知ってもらおうと文章にすると
私はしっかりと自分の頭の中に定着してくれます。
もっと教えて
もっと聞きたい
なんて、言われちゃう場がたくさんあると
どんどん話しちゃうので
ますます自分の頭の中に
その新しい考えや勉強してきたことが
何度も何度も自分の声を通じて
自分の頭の中を繰り返し洗脳していくので
さらに、その回路は太くなっていきます。
好奇心はいっぱいあって
いろんなこと勉強してて
頭の中にはいっぱい「いいこと」が詰まっていても
それを外に出さない出せない
のだとしたら、
それは脳内便秘を起こします。
フラストレーションでいっぱいになってしまうんです。
自分はこんないいこと知ってるんだ!
勉強してるんだ
と思っていても
それを人に伝えられない
話せない
としたら、
出と入の
バランスが崩れます。
たくさん出すから
たくさん入ってくる
入れたと同時にすぐ出る
ってのが、一番気持ちよいですよね?たしか・・・・おなかはそうなってます。
知ってること
知ったことは
とっとと、教える
教えてしまって
自分からどんどん離しちゃうんです。
離しちゃってる時には
もうすでに自分はそれを「もはや、そんなことはあたりまえ」のものとして
修得できちゃってるんです。
そして
わお!これだっ!
って細胞レベルで掴んできたようなことは
すぐに、実生活で
やってみるんです。
学んだことは、
間髪入れずにとっととやる
そして、検証していくんです。
できるかどうか
やってみたら難しいことがわかった
先生は簡単そうにやってのけたけど
実際にやってみると
その奥の深さが、わかった
とか、
自分ができない、ということが
身をもってわかるのです。
できないということがわかれば
できるようになるために
どうすればいいか手を打てますし
やってみてうまくいったなら
自分流をとっとと捨て、ポイしちゃって
新しいやり方を取り入れ習慣になるまで
定着させればいいのです。
でも、そうはいっても
聞きたくない人もいるかもしれないし
でも、そうはいっても
人にはいろいろな考えがあるので
私の考えを押し付けても
でも、そうはいっても
・・・・・
そんな声が自分の中から聴こえてきます。
自分の中から、です。
外からでは、ないんです。
聞きたいか聞きたくないか
役に立つか、立たないか
いろんな考え方があるのかないのか
そんなことは
こちらが考えなきゃいけないことでは
ないので、考えてもしょうがないことなのです。
つまり、考えなくてもいいことを
考えていると
何も発することは、できなくなるのです。
人は、いつも答えを待ってます。
私が、そうだから、です。
答えを「はい、どうぞ」と言ってくれる人を待ってる。
言い切ってくれる人を待ってる。
だから、自分もそうなるのです。
その方が、面白い。
その方が、聞いてる方も面白いし
「よし、やろう」という気になるというものです。
もう少し自信がついてから
もう少し勉強してから
もう少し慣れてから
は、そのもう少し先には何も、ないのです。
今すぐ、
でないと、
ダメなんです。
今すぐ、やるから、
その先に、「答えを出せる自分」が勝手に出来上がってくるんです。
人に通用する言葉を
自分の中から探らなきゃいけない
というプレッシャーがわいてくるんです。
プレッシャー、大事です。
いつも、負荷をかけておかないと
ダランダランと緩んでおしまいです。
それって、疲れない?
と言う人がいますが、
違うんです。
緩んでいる方が、疲れるんです。
暇でヒマでやることなくて
あーだるう
って毎日で、癒しを求めてる時の心の中をのぞいてみると
雑音だらけ、です。
その雑音は
心配しなくてもいいようなことを心配している自分の声だったり
どっちでもいいようなことを考えている自分の声だったり
そしてもっとも恐ろしいのは
「自分って何もできないどうしようもない人間なのかも?」という
声だったりするのです。
頭の中から雑音を消すのは
一つしか、ないんです。
勉強したことや
ちょっとでもいいこと知ったなら
自分がやってみて「これだ!」って思ったことは、
堂々と、話す、伝える、教える
です。
私達が生きてる世界では
謙遜して控えめにしていい場所と
謙遜して控えめにしてちゃいけない場所が
ちゃんと、あるんです。
はっきりと、明快な言葉に
ほがらかな笑顔がセットなら
目の前の人は、安心します。
「あ、この人がそういうならそうなんだ」
と安心するんです。
人は、安心したいんです。
安心すると
余裕が生まれるんです。
余裕は、安心しないと
わいてこないんです。
今は、
というかいつの時代にも同じだと思いますが
安心させて欲しい人
安心したい人10000人に対して
安心を与える人1人くらいの割合です。
圧倒的に少ないんです。
だから
自分は安心させて欲しい側に回っちゃだめなんです。
先に、安心させる側に
立っておくんです。
そんなことできるかな
そんな自信ないわ
じゃなく
そうなろうと決めたら
そうなるのです。
決めたらいんです。
接する相手が揺らいでいると
言葉があいまいだと、
接せられる相手は、とまどうんです。
揺らぐんです。
あいまいな言葉が伝染するんです。
あいまいな言葉は
自分を惑わせます。
よくわかったようなわからないような
言葉を使っていると
自分が何がなんだかわからなくなってしまいます。
だから、相手にとって自分は
あいまいな人間じゃないか?
ってこと考えないと
相手様にも迷惑な話なんです。
大変な時代だ
人間関係が希薄な時代だからね
核家族化したからコミュニケーションが苦手な人が増えたね
今は、人間関係は難しいよね
なんとなくわかったような
わからないようなこんな言葉
毎日、あるれるようにテレビでも話してますし
世間話でも、飛び交っってます。
で、だから、どうなの?
ということをきちんと考えておかないと
その言葉に自分の脳みそがつかまるのです。
あっという間につかまってしまって
はまるのです。
自分が普段使ってる言葉で
自分の心の中はあっけなく崩れます。
自分で繰り返し使っている言葉で
自分が迷路にはまるのです。
自分の使っている言葉が
ぐるぐる何年も自分の脳みその中で
便秘になっていないか、
チェックするんです。
いらないものは外に出す
押し出すんです。
えいっ
エイッ
と押し出す。
押し出すために
人に話すんです。
教えるんです。
教えよう
伝えよう
話そう
という意識を持ってると
あら不思議。
今度は勝手に
自分の体が自動受信機に変身です。
自動受信なので
オートマチックです。
あとは、脳ミソが勝手にやってくれるんです。
受け身はしんどいです。
受け身だけじゃ、弱っちゃう。
受け身だけじゃ、言われたい放題。
受け身だけじゃ、エネルギー枯渇するんです。
ニュートラルを保つために
出す出す出す入れる出す出す出す入れる
のサイクルです。
自動受信機になって、
いいもの全部キャッチしちゃおう
と思ってると
なんでも、キャッチできちゃうんです。
ご一緒に
自動受信機に!
次回母性型勉強会は
平成26年9月24日(水)午後6時半~9時
高松国際ホテルにて
会費:3,000円(食事代込み)
http://www.boseinomonosashi.com/
これ、知ってます?↓
ミレービスケット。
「ミレーたまらないよね」と話してると
このママ友のお陰でうちの子はまともに生活できてますって友人が
今朝こんなの持ってきてくれました。
しょうが味
にんにく味
コーンポタージュ味
ブラックペッパー味
高知にのみあるそうです。
梶谷のシガーフライと同じくらい常備しているミレービスケット。
私の昼ごはんは、ビスケットとコーヒーが一番嬉しい。
お昼ご飯にはビスケットを好む私です。
昨日は「せんの会,YUKIの部屋」へご招待して頂きました.
こんなに楽しそうに嬉しそうにお料理をしている人をはじめてみました.
ゆきさんは,母性型勉強会に2年ほど前にはじめてきて下さいました.
吉本歯科医院のニュースレターを読んでくださっており
母性型に興味を持ってくださっていました.
その後,ともに勉強する中で
「やりたい」と思ったら,やってみたらいい
あれこれ考える前に,
「そうだ!やってみよう」と
思ったそうです.
ゆきさんのお料理のお師匠さん「せんの会」の先生は
ぜひやってみなさいね,と背中を押してくれました.
ゆきさんは毎月高速バスにのって大阪の先生の教室に
お料理を学びに行ってました.
大好きな先生
尊敬する先生
そんな存在から教えてもらえることは
すべて浸み込ませたいという意気込みで
通っていたのです.
先生の言うことを必死で聴いて
丸ごと全部浸み込ませたいと願うゆきさんと
そんなゆきさんを応援したいという先生の気持ちが
しっかり重なった
「せんの会,ゆきの部屋」でした.
ゆきさんは,料理教室を開く時
「そうだ,やってみよう!」と思ったそうです.
それからはひたすら
夢中で楽しくて
自分自身が辿ってきたお料理をする楽しさ,喜びを
伝えたい,
「こんな素敵な世界があることを知って欲しい」
という想いで料理教室を毎回重ねてきています.
やっている本人が一番楽しんでいるのです.
その楽しそうな雰囲気や空気が勝手に伝染して
今では,スケジュールを公開と同時にすぐに満席.
みんながここに来たがる理由が
わかっちゃいました.
キッチンであんなに楽しそうにお料理している姿を見ると
「なになに?なんでそんなに楽しそうなの??」
と思ってしまうものです.
人は無理やり集めるものではなく
勝手に集まってくるものですね.
これはとうもろこしご飯.
昨日は鳴門で子供達が宿泊合宿をしていました。
私は、日曜の朝にお迎えに。
そこで
エネルギーが高い人には
引力が生じる、
ってことを
目の前で感じさせてくれた人に会いました。
発する言葉は明快で痛快。
なんて気持ちいいい会話!
発する言葉にブレがなく言い切る
目はしっかりと、こちらを向き
磁石のようにひきつける
エネルギーが高い人
エネルギーが低い人
というのは、会った瞬間に感じるもの。
自分のエネルギーが落ちてるなあ
自分のエネルギーがいま、なかから満ち満ちてるなあってことも
自分ではちゃんと感じるもの。
私の場合は、
こうやってエネルギーの高い人にぱっと会った時に
自分がギュインってひきつけられ
「うわあ!!近づこう!あっちへ近づこう」と感じた瞬間に
頭で考えず
動き出した時、ほぼ満タンになります。
だから、何かに夢中になっている人の場に行くと
勝手に着火しちゃいます。
どんなに理屈をこねても
エネルギーが低いと人はそこに引きつけられることは
ありません。
「私、満たされてますから」
と頭では思っても
エネルギーの低さは外からは見てわかってしまうのです。
引力です。
自分の求めるものを
自分の求める人を
引き寄せているのは自分の作為的なことではありません。
理屈や知識でもない
引力です。
いいものを引き寄せられない時は
エネルギーが枯渇してるんです。
適当に、ぼんやり生きてると
私は完全にガス欠を起こします。
自分を形作っているすべてのことは
自分全部選んで決めています。
今の、自分は、
目の前の些細な些細な選択を重ねた結果、
今の自分になってます。
だから、今の自分が嫌だ、不満だ、自信がない
気に入らない、
顔が気に入らない、スタイルが気に入らない
ということすべては
全部自分が選んできた結果、そうなっているということです。
今日、朝、6時におきようか、それともあと5分寝ていようか
コーヒー飲もうか、ミルクをいれようか
今日何を着ようか
さっき、あの人に話した言葉は?
からはじまり
なんで、今この会社で働いてるのか?
なんで、この人と付き合ってるのか?
全部、自分で決めてます。
その結果、
今、自分が気分がいい
とか気分が悪いとか
エネルギーに満ち満ちているとか
やる気がないとか、
になっているわけです。
今の気分が悪いのなら
今の自分がずっとうまくいかないのなら
小さな選択をちゃんと自分で自覚して決めていないのかも
しれません。
「あの人がこういうから」
「親が」
「世間が」
「会社が」
「夫が」
「家庭が」
と
主語が、
「私は」になっていないのかも、
しれません。
誰かが自分を動かして
いるのではなく
自分の舵取りをしているのは
自分です。
そこをはっきり自覚し
意識し、
言葉を発し、
人に接している人は
何気なく出てくる言葉が
やはり、違うのです。
全然、違っているのです。
その「意識」を自力で変え、
どんどんうまくいき続けている人の話は
素直に聴いたほうが、得です。
「あっち」の意識から、「こっち」の意識へと
変化した瞬間やプロセスには
きっと参考にできることがあるから、です。
人の話を聴く
とくに、「ええ?なんでそうなれたの?」という
人の話は素直にじっくり聴いたほうが得なのです。
それは
どんなジャンルでもいい
どんな場でもいい
どんな職業でもいい
人が「ガラリと意識が変わってしまった」という瞬間には
やっぱり自分にもヒントがあるのです。
そして、共通することがあるのです。
いろんな勉強材料があり
今は、ネットで何でも検索でき
すぐに「わかって」しまいそうな世の中ですが
私はやはり、人は人に会って魂が共鳴できる瞬間からしか
学ぶことはできないと、思います。
外野の声は、どっちでもいいんです。
自分で会って
近くで見て
声を聴いて
心が震えあうかどうか。
実際に会う
実際に行ってみる
ことしか、自分をドッカーンと飛ばしてくれることは
ないと、思う。
心がスパークしちゃった後、
帰りの車の中は
あの人の話した言葉や表情や声が
頭の中をグルグル回って
高速に乗り損ねてしまいました。
結局、1時間で帰るところを倍以上かけて帰ることに。
しかし、同じ時間を共有した人と
長い時間話をしたかったので
ちょうどよかったのです。
「本当は、こうやって生きたかったのになあ」
「もっとこうしたかったのになあ」
って思って棺おけに入るのは
切ないです。
もっと、わがままに
貪欲に
自分の内なるエネルギーをたっぷり満たすんです。
生きてるうちだけですから。
そんなことできるのは。
引力ですので
勝手に、引き寄せられてきます。
これ、物理です。
結局は
自分が成長するしか
自分を面白くする方法は、ないんです。
成長しよう。
ぐっと意識を引き上げよう
と毎日毎日いろんなことを選びきっていくことで
何を見ても面白がれる自分になれるんです。
自分の見えている世界に面白いものが
ないのではなく
面白く見える目を養わないことには
何を見ても
飽きるのです。
熱くなれないんです。
あさって8月20日(水)は母性型勉強会です。
時間は同じく18時半より、
高松国際ホテルにて
会費:3,000円(お食事代込み)
それでは、次回は3ケ月後、半年後にお越し下さいね
と、患者さんとお話していると
3ケ月後、半年後といえば、もはや今年も終わり、
半年後は2015年です。
あっという間に、時は過ぎます。
一年のはじまりには、
「さあ、今年こそはっ」と、何かを変えてやろう
新しく取り組もうと、思っていても
忙しい毎日を過ごしていくうちに
年頭の熱い想いや決心は忘れ去っていくことがあります。
そしてふと、
一年も終わりかけた頃になって
「ああ、やっぱり何もできなかった」
「ああ、何も変わってない」
「ああ、決心したけど、実行できなかった」
何も行動できなかった自分にへこみ
自分はやっぱりダメなんだ、とさらに
自分で自分の
自信を奪っていってることを
感じることが、あります。
心は、放置しておくと
行動しないようにできてます。
感情は放置しておくと
へこむようにへこむように
なってます。
「あっ!面白そう!すごいっ!」
とピンときたら
間髪入れずに行動しちゃう習慣が身についていることで
得られる恩恵というものは
すごいものだと、私は思います。
多くは、「あ、これっ!」とピンときても
「でもね」
「本当かな」
と頭で余計な考えが一瞬よぎります。
その一瞬がくせもの、です。
その余計な考えが介した瞬間に
次に行動しようという気が失せるから、です。
だから、間をおかずに
動いてみるというのが
大事です。
私が自分でルールにしていることが、あります。
自分ルールは、
うまくいくことがわかっているので
ルールにしているのです。
①もうそれをやってのけて、向こう側に行ってる人を見つける
②その人が教えてくれる通りにする
自分で考えたり
自分で解釈するのではなく
その人が教えてくれる1から10までその通りに、やってみる
のです。
途中経過で
「あれ?」と思っても
「そんなのあり?」
と思っても
まずは1から10まで素直にやってみる。
そうすると
何かしらの結果が出るんです。
これ、本当に、出ちゃうんです。
目に見えて、自分が「違ってる」という変化がでるんです。
そうなると
「うーん、やっぱり、そうかあ!」
と今度は確信に変わります。
やってみると
面白さを実感したり
すごさを発見したり
その過程そのものが、面白かったり
するので
やり始めた人は、
面白いので
続けるのです。
やらない人は
面白さを体感できないので
「やらないまま」
なのです。
やってみて
うまくいって
確信に変わると
そうなると
ますますもっと言う事を聴いてみようと
いう気になり
ますますその人やそのことへの関心が深まっていくのです。
どんなに知識を重ねても
やはり私のルールはこれ、です。
同じように
同じことに取り組みだしても
「でもお」
「うーん、あの人だからできるんだわ」
「本当かなあ」
「もっと、簡単なのがいい・・」
「面倒くさいなあ」
と言って動いてない人は
やっぱり、損をします。
人は、自分が「こうやってうまくいったよ」
ということは、
人に教えたくなるもの、です。
ライバルには教えない
とか
あの人には教えない
とか
意地悪な気持ちが無い限り
やはり、うれしいことは、いいたくなるもの、です。
そして、一緒にその喜びを
わかちあいたいと
思うもの。
特に女性はその傾向強し。
でもその時に
「こうやったらうまくいくよ」ってことを
アドバイスしたとしても
「うーん、でもねえ」
とばかりで
やってみようとしない人は
そのうち、アドバイスしてくれる人は
いなくなります。
自分のまわりには
いくらでも人はいるように思いますが
誰のいうことも聴かないことが
たくさん続くと、
そのうち
自分のまわりから人は消えるのです。
なぜなら、
人は、自分のいうことを素直に聴いてくれる人の方へ
時間と愛情を注ぎたいから、です。
これは、自分がアドバイスする側になったら
そう思いますよね?
その方が一緒にいて楽しいし
その方がこちらも元気になる
もっと何かを教えようと
愛情を注ごうとしたくなる
自分に幸運をもたらしてくれるのは
人を通じて、です。
その人が、次第に自分の前から
消えていくのです。
片方は、素直に実行し、
やってみるから、行動した体験が
実感となり、ますます
自分を突き動かします。
片方は、「できっこない」「面倒くさい」
と言い訳をし、
ますます動かなくなり
ますます良いことから
自分を遠ざけてしまう。
もったいないのです。
私は20代の頃は
永遠にこの命が続くと思っていました。
30代もまだまだ。
しかし
40代になり
身内がどんどんなくなり
身近な人がどんどん本当にあの世に逝ってしまうと
自分の残り時間をものすごく意識するようになりました。
砂時計状態です。
だから、時間がないのです。
あー、できないなあ
でも、無理だなあ
なんて思考する時間がもったいない
どうすれば
できるかな?
どうやったら、あの人みたいな雰囲気をまとえるのかしら?
どうやったら?
どうしたら?
と、ずっと考えているだけでも
時間はあっという間です。
「本当かなあ?」
と、人の話に一歩引いてる場合じゃないんです。
「ちょっと、それ、教えて!!」
と思わず身を乗り出しちゃうくらいで
ちょうどいい。
そうしてるほうが
自分の中身が縮こまらなくてすむのです。
なんでもかんでも
できないと勝手に決めてるのは自分です。
自分で決めるので
できちゃうわ
と決めるのも、自分です。
今すぐ、手を打てることは
あるんです。
どうしたらできるかな?
とすぐに考え
行動する方法を教えてくれる人が
すぐ近くにいると
一日はすごいスピードで過ぎていきます。
そういう存在は本当に、ありがたい。
体が動いている時は
心も一緒に動いてるんです。
そして、ひとつのことを思考しているので
他ごとが頭をよぎらない。
本当に、人間はシンプルにできてます。
そのまま、やってみる
ルールは
本当に使えるのです。
■次回母性型勉強会は
2014年8月20日(水)午後6時半~8時半
高松国際ホテルにて
会費:3,000円(夕食込み)
もう、成人の、大人になっても
親がかわいそう、で自分がそばにいてやらないといけない
という思いに縛られ苦しい思いをしている人は
少なくありません。
昨日も、もう何年も母親のことが「かわいそう」で
結婚してからもずっと気になって、しょっちゅうそばにいないと
自分が苦しくなる、という女性がいました。
親が、かわいそう
という気持ち、私は自分が父親にそう感じていた時が
あったので、よくわかります。
母と別れてからの父がなぜかとっても
かわいそう、で、と思っていました。
しかしある人に
すごいタイミングで
「かわいそう」というのは、自分の方が立場が上で
相手を下に見ている時に使う言葉です、
とても傲慢な
言葉です。
と言われ
ハッと我に返りました。
誰かを「かわいそう」と言ってる自分は
自己満足です。
「かわいそう」と誰かのことを言っている自分が
本当は、かわいそうなのです。
これは、
自分で、自分が発する言葉のトリックに
はまっているんです。
本当は「かわいそうな」自分のことを
考えなくてすむから、です。
「かわいそう」と思うのは
本当は相手ではなく、自分です。
「かわいそう」と思われている相手は
実は本人そんなにかわいそうでは、ないのです。
小さい頃、親に十分に愛情を注がれなかった
だから、
今の自分は、こんなにつらいんだ、
という思考があります。
もし、小さな子供が親から
欲しい時に愛情を注がれなかったり
怒鳴られたり
不安な気持ちにさせられたり
といったことは、
子供こころにはとても、恐怖です。
たしかに。
私も、家を飛び出した母に連れられ
夜中に古い映画館で悪霊島を観た時には
たしかに怖かったです。
これから、どうなっちゃうわけ??
と思ったもの、です。
しかし、
成人すれば、大人です。
20歳過ぎた時点で、立派な大人の女性です。
ここを押さえておけば、
自分はぶれることはありません。
だって、私はもう大人だもの。
です。
とっとと、大人になることを
決めた方が、いいのです。
その方が楽なのです。
希望は過去の中には、ありません。
過去をほじくりかえしたって
自分の都合のいいように解釈するだけ、です。
自分の今の頭で
自分が「かわいそうだった」と解釈するだけ、です。
なぜ、私の親は
その時、あんな態度だったのか?
なぜ、私の母は?なぜなんだ?
その両親の影響を受けて
今の自分のこの思考パターンがあるんだな、と
そこはもう冷静に、冷静に、
客観的に、他人の心を観察するように
分析すれば、いいのです。
自分がうまくいかないパターンは
自分の心の傾向です。
本当は、あっちに行けばいいのに
なぜか、こっちにとどまってしまう。
というのは、自分を突き動かす潜在意識の部分が
何かを怖がっているから、です。
では、怖がっているものは何か?
を冷静に、冷静に、分析です。
そして、「ああ、そういうことか」と知れば
パッと離す事ができるんです。
大人になってからの異性の関係や
友人関係
親子関係
あらゆる関係は、
自分が育った親と子の関係に
根っこがあります。
なぜ、いいたいことが言えない相手でも
迎合してしまうのか?
自分が幸せになろうとすると、自分で自分を阻止しちゃうのか?
自分の気持ちを優先することが、どうしても苦手なのか?
心理学を知り、
そんな自分を「ああ、自分ってこの通りだわ。だから私ってこうなんだー」
と安心して納得しても
知識を知ったところで、
現実はなにも変わりません。
私は、知識を知りたいのか?
それとも
誰とでも付き合え
のびびびと生きられる自分になりたいのか?
どっちを選ぶのかは
自分次第です。
育った環境は
自分でも気が付かないうちに
しみこんでいるものなのです。
小さい頃に植えつけられたもは
しみこんでいるのです。
よくも、悪くも。
しかし、そこを愚痴ってもしょうがない。
悲惨な過去だと思うのなら、
まだ、過去を克服できていないのです。
今が、満たされてる、と過去は
勝手に「だから、それも肥やしだったんだ」と必ず思えるものです。
転化できちゃうもの、です。
肥しだったんだあーー
と心底思うために
今、「自分はどうありたいのか?」と考えるのです。
そして、今の自分が嫌いなら
直ちに行動です。
一番効果的なのは
スカッと、行動している人に
ぴったり張り付く
プチストーカーになる
ということで、
3ケ月もすれば、彼の、彼女の行動や思考が
自分にもインストールされてきます。
結婚して外に出て、
母親を「かわいそう」と思う気持ちに支配されてしんどいのは
なぜなのか?
と、分析してみる。
大事なんだけど、
腹が立つのは
なぜなのか?
と、分析してみる。
ごちゃごちゃにからまった紐は
ゆっくり、じっくり解いていけば、
ちゃんと解けるもの、です。
紐とを解いていくと
結局、「で、自分はどうしたいわけ?」
というところに立ち返ります。
親からもらった今の自分が
いやなら、満足していないなら
「こんなのじゃ、嫌だ!」と思い切り叫んじゃえばいいのです。
自分を取り巻くあらゆるダレタ関係が嫌なら
いっそ全部ダンシャリしちゃっても、いいんです。
自分を動かすのは
誰かから聴いたような知識ではなく
本から得た知識でもなく
「もう、何が何でもどうにかしたいんだ!こんなの嫌なんだ!」
という湧き上がってくるマグマのような感情でしか、ありません。
目の前で
すごい勢いで真剣に生きてる人を見ると
衝撃を受けます。
その衝撃を受け取って
自分の中にすかさずインストールするんです。
間髪いれずに、です。
頭に知識を詰めこむことでは
ないんです。
その醸し出している雰囲気や目つき、声の勢いを
インストールしていただくのです。
親子あっても
友達同士であっても
異性との関係であっても
職場での関係であっても
近所付き合いであっても
あらゆることはすべて
「私と、相手」という人間との関係によって起こります。
なので、「私は、こう生きたいんだ!!」というものがないと
永遠に、流されます。
流されっぱなし
踊らされっぱなし
いつも一緒にいる友達がこういうから
親がよろこぶから
みんながそっちにいくから
永遠に他人の言葉や気分に踊らされてしんどいのです。
昨夜、時々思い出したように
メールのやりとりをするある人からメールをもらいました。
私にリアルなネタを実況生中継してくれる人です。
「嫁が包丁を持って暴れております」
という出だしです。
うーん、今夜も激しくやってますな。。。。
当事者には申し訳ないのですが
私はこの方の実況生中継が
面白い。
夫婦間の問題も
根っこは、やはり親との関係です。
私も幼少期は包丁はよく壁に刺さってくるような家庭でしたので
驚くことは、ありません。
包丁をもって暴れてしまう奥さんの気持ちが手に取るように
わかるがゆえに、
それがうっとしくて逃げ出したい、できるなら
妻をリセットしたいというご主人の気持ちがわかるがゆえに
「むしろ、徹底的にやるべし」
と思ったりも、します。
どちらが悪いとか
ではなく
夫婦とはお互いにリスクを抱えあった存在です。
関係がおおありなのです。
だから激しくぶつかるのです。
他人どうしなら
「あ、雲行きが怪しくなったなあ」
と雰囲気を察知したら
すぐに話をうやむやにし、ごまかせるのです。
リスクのない関係
状況が変わったならすぐに退散できる関係は
ぶつかる必然がないので
ぶつからないのです。
なので、一見仲良しのようですが
ひとたび突っ込んだ話になると
どちらか必ず逃げます。
そんなもの、です。
だから、仲良くやれるのです。
世間話をしている時は仲良くやれるのです。
しかし、夫婦はそうはいきません。
話し合わなければならない案件が山ほど、ある。
どちらかが幼稚だと、依存してくる。
依存された相手は逃げたくなる。
逃げさせはしまいと、追ってくる
そう、包丁を持って。
まさに、泥ぬま。
泥、泥だらけ。
でも、いいのです。
泥ぬまOK。
いつだって逃げたくなるような問題を抱えているから
自分の中にプレッシャーや危機感や
どうにかしなければ、という思いが溢れてくるんです。
泥ぬまになるから
はじめて「やばいっ!!」という危機感が発動です。
発動するから、本気で考える。
自分のことも
相手を通してみて自分の幼稚さを知ったりするんです。
泥ぬまは底なしなので
はやく抜け出したい!と切実度も真剣です。
だから、いいのです。
泥ぬま体験の量=人生の面白い時間
と捉えてはいかがでしょう。
私は、そう思います。
50歳、60歳になった時
泥ぬま体験をたくさんしてる人の話は
魅力的です。
惹き込まれる。
あ、変態でしょうか?私は。
でも、その方が、面白い
身近な関係でさんざん泥ぬま体験をすると
どこかでお互いが消耗します。
消耗しつかれきると
今度は笑えてくるんです。
さんざんやりあったら、
なんだか、笑えてきた、ってこと
ないですか?
夫婦の関係や恋人関係で
泥ぬまにもめにもめる時というのは
同じ土俵にいる時です。
対等なので腹が立つ。
考えが違うことでもめたなら
より考えが深い方に合わせていくんです。
私はそうやって教えてもらいました。
自分よりも、相手の方が深い考えをしてるなあ
ってことに気がついたら
合わせていくことができるんです。
「わあ、もうこの先生のやってることいってることを
生きてるうちに全部自分にしみこませられるかなあ?」と思うレベルの
人に会うと
10000%合わせます。
勝手に、あわせたくなる。
自分の考えなんて、どっかにぶっとび
その深さに自分を合わせたくてしょうがなくなる。
自分を評論してる場合じゃあ、なくなる。
そう思わせるまで
逆に自分が相手のことそう思うまで
戦い続けるか、
とっとと見切りをつけるかも
やはり
選択です。
どっちを選んでもいいんです。
自分で選べば納得です。
いっこを選ぶと
いっこは、捨てなきゃいけなくなるんです。
あっちもこっちも欲しいとなると
選べない
先日は、恒例のごった煮会がありました。
もう20年以上付き合っている人もいます。
年に2回、夏と冬とやってます。
年齢も、職業も家庭環境もみなごちゃまぜです。
いろんな人生があります。
「そこでそんなの選んじゃったわけ?」
って人もいれば
「ありえませんなああ」
という人もいて、面白い。
聞いてみると
みな、それぞれの人生の中で
何かを選んで
何かを捨てて生きてきている
みんながこちゃまぜになると
こんな面白い発見があるのです。
「妻が包丁持って暴れてます」の人の
今後の報告に期待します。(←私は何を期待しているのだろうか!!)
遅くなりました
先日のごった煮会の様子です。
12月冬の会の日程も決まりました。みなさま、また冬に!↓